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第九回:語学学習における文法の位置づけとは

第二回の中で、私は文法力の必要性について触れました。
その事についてもう少し、話をしてみたいと思います。

1.文法学習は不要か必要か
 いきなり、過激論争に入っている様ですが、この論争がある事は確かですし、私も色々な語学教室を見てきていますので、その中での語学教育に関する考え方が、根本的に違っている事をよく見かけます。

まず、現時点(2010/08/29)における、私の結論づけから説明します。
(結論)
  語学(会話、筆記、読書)学習において、1つの学問的に文法を学習しても、全く意味をなさなく、語学力のアップに繋がるどころか、妨げる結果に陥ります。
  しかし、第二言語として文法を知らずして、語学力をUPさせるには限界があります。
  つまり文法構造を知らなくても決まったフレーズを覚えてそこに必要な単語を入れて話をすれば、一定のレベルで会話をする事が出来ます。
  しかし、応用の範囲は狭く、フレーズに無理にはめようとすると自分の本当の思いを相手に伝える為の文章を作るという応用が利かなくなります。
  より、レベルの高い自分の気持ちを伝える会話をする為に、文法力(文章力)は必要不可欠となります。
  学習者の目的によって必要性が変わりますので、これは学ぶか学ばないかは、本人の選択と言う事です。

  以上が、私の文法に関する考え方です。
  では、何故そういう考え方になるのか第二回の内容と重複する部分は有りますが説明します。

  まず、文法学習をせず、語学を身につける事は可能か?
  これは可能だと思います。例えば英語の初級では、大体挨拶文で始まりますが、
      A: Hello! How are you?  (こんにちは、お元気ですか?))
      B: Hello, I am fine. Thank you. And you? (こんにちは、元気です。ありがとうございます。あなたはどう?)
      A: I'm fine,too. (私も、元気ですよ。)
  こんな感じです。これらは、挨拶の決まり文句の様な物で、それ自体丸覚えでも使う事が出来ます。
  更に、一歩進むと、
      A: My name is Troh Tanaka. What is your name, please?
             (私は、田中太郎と言います。あなたの名前えお教えて下さい。)
      B: I'm Hanako Suzuki. In this weekend, I am planning to go to Tower of Tokyo
             (.私は、鈴木花木と言います、今週末に、東京タワーに行こうと思ってます。)
          Why don't you go with me?
             (ご一緒しませんか?)
      A: Oh!, it's good idea. I'll do,too.
             (あぁ!良いですね。私も行きますよ。)
  少しだけ、レベルが上がりましたが、これも文章を丸ごと覚えて、下線部分にはまる語句を覚えておけば、色々と応用できて使える事になります。例えば、Bさんの部分を以下の様に変えるわけです。
      B: I'm Tadashi Sakai. In this saturday, I am planning to go to Kinkakuji in Kyoto.
             (私は、坂井忠と言います。この土曜日に、私は京都の金閣寺に行こうと思ってます。)
こういう事で、フレーズと下線部にはめられる語句を覚えていけば、十分に会話できるレベルに達する事は可能という事です。

 すると、文法学習をする必要は無いではないか、と言う事になります。では、次の文章を考えてみたいと思います。
      やあ、久しぶり。元気?

 あまりに簡単なセンテンスですか? 初級の話者だと多分次の文章を作ると思います。
      ① Hello! A long time no see you. How are you?
 これは、間違いでは有りません。では、次の文はどうでしょう。
      ② Oh! Hello! Have you been?
 有る程度、学習をこなしている人なら分かる文章です。こちらも、ほぼ同じ意味になります。
 しかし、どちらがより気持ちのこもった文になるでしょうか? それは、文法構造を知って初めて理解できます。
  ①の文章ですが、全て現在形、すなはち現在時点での状況で話をしています。
  ②の文章は現在完了形、すなはち有る一定の期間を含めて現在に至るまで丸ごとを表現しています。
 従って、時制(時の感覚)に焦点をあてて訳すと
      ① こんにちは、長く会ってませんでしたね。今は、元気ですか?
      ② やあ、こんにちは、(しばらく会わなかった期間)今まで元気にやってましたか?
 と言う様な解釈になります。
 どちらの文も間違いではないが、「より長い期間会わなかった」という事実に対して、その気持ちの出方に違いが出ている事が分かると思います。
 当然、実際に会話する場面でいちいち「ここは現在完了形で話をしよう」とか考えていたら、会って直感的にこの言葉が出てきません。イントネーションでカバーする方法も有りますが、文法構造によって、気持ちの現れ方が変化する事を知る事は、次回に話をする場合に、自分が思っている事をどう表現すればいいかに繋がります。


2.文法学習おける標準語の位置づけ
 文法学習に対する考え方は、第二回の 文法力の必要性についての中で触れてますが、もう少し話をしたいと思います。
 まず、認識すべき事が有ります。それは、文法という物は、母国の文法家達が、母国語をいかに体系立ててその構造を研究して、法則化したものであると言う事です。

 しかし、言葉という物は時代背景と共に流動化しており、常に文法も変化し続けている点が有ります。
 特に表現豊かな日本人は、好き勝手に言葉を創り出し、今までにない表現をします。

 例えば、以下の様にです。
    キーワードを「○○」でググったら、△△の様なページが見つかりました。」
  これは、最近私もよく使うフレーズですが「ググったら」って意味分かりますか?
  インターネットを使いこなしている人には分かるでしょう。

  これは、固有名詞「グーグル」を動しかしてラ行の活用をした物です。「ググる」「ググった」「ググれば」「ググらない」。
「ググります」ですね。

  何故、固有名詞が動詞になれるのだろうと言う疑問は、日本人以外の外国語話者だと理解が難しいと思います。
 これは、習慣的背景が伴っているからだと私は考えています。「グーグル」と言えば誰でも知っている検索サイトの1つです。

 そうするとグーグルで操作する事は、たいがいの場合は「検索する」と言う事で、その意味の含みを持っている事になります。「ググる」とは、「グーグルで検索する」を短縮した物です。

 ようは、誰でも知っている事柄は、長々と書くと、面倒でもあり間にはいる言葉を何でも省略する傾向にあると言う事です。
 
 特に、最近では、女子高校生あたりでその傾向は強く、同じ日本人の大人でも理解できない言葉を使います。
 更に言えば、女子高生の間でもローカルな言葉を編み出し。同じグループに属さないと分からない事もあります。

 これは、世代での話ですが、地方によっても言葉の表現の仕方は、異なります。
 私が今までに経験した事の有る2つの言葉について例を挙げてみます。

1)「○○をなおす」
 典型的な例です。皆さんは、どう解釈しますか?
  恐らく、西日本の多くは、「○○物を片付ける」と解釈するでしょう。
  東日本の多くでは。「○○物を修理する」と解釈するでしょう。

2)「これは、みやすい(みやしい)」
  これは、ちょっと難易度が高いです。
  普通的には、「良く見える、見易い」と解釈するでしょう。
  しかし、これを広島県で言うと「簡単だ」と解釈します。

これらはいわゆる、方言の一つです。

しかし、例えばアナウンサーという職業の人たちが使う言葉は、全地方に向けて情報発信をしますから、いちいち方言を使っていたのでは、統一的な情報発信は出来ません。また違う地方の人同士が喋る時も、それぞれの方言で話しても相手に正確に自分の気持ちを伝える事は出来ません。誤解を招く事もあります。
そこで必要になるのは、標準語の存在という事になります。

これは、何処の国に行っても同じだと思います。特に、中国では様々な少数民族の集まりがあり、使う言葉も違いますが、日本語の標準語に当たるものを中国では「普通話」と呼んでいます。

母国語話者が外国語を学習する場合は、その国の方言に左右される事のない、この標準語を学習する事になります。


3.語学学習の文法に対する位置づけ
 標準語は文法家達によって一定のルールかがされてきていますが、これも完璧ではありません。時代背景と共に変化し言葉の持つ意味自体も変化し続けているからです。

 しかし。語句の基本的な構造は、比較的不変であり、長年に受け継がれてきた物でそう簡単には変わりません。
 そういう意味で、文法構造を学習する事は、相手に正確に事物を伝える手段としては、強力な武器になるとも言えます。

 しかし、あくまでも文法は、言葉を解釈する上で、現存する言葉を体系立てて構成された物であり、そこに全ての理屈をはめ込む事などとうてい出来ない表現があることも事実です。
 「常に例外は有るものだ」と言う認識は必要かと思います。

 もう一つ、大切な事があります。
 それは、今学習している文法は、本当にその文法で正しい認識が出来るのかという問題です。
 初期の学習者が文法学習に使うのは、母国語用に解説されている解説書になると思います。
 これは、それで利点もありますが、最近私は欠損する欠点もある事が明らかになってきました。

 母国語と、第二言語では、同じ文法構造の所については理解が簡単だが、全く概念が新しい内容については受け入れる事が困難で、それを母国語で説明が詳しく解説されていると、理解がしやすいです。これが、初期の学習段階です。

 しかし、学習が進むにつれて、それだけでは説明が付かない例外的表現が多く出てきます。最初は、何故だろうと思っていましたが、最近ようやくその理由が掴めてきた気がします。

 文法説明は、外国においても、留学生用に解説されている本などが有りますが、色々と調べていくと、実は母国語話者が習う文法体系と、外国語話者が習う文法体系には少し違いが有る事を最近見つけました。特に中国語は顕著に見られます。

 何故そのような事が起こるのかというと、外国語の文法体系は母国語の文法体系と構造自体が異なる為、学習の壁になってしまうからです。従って、外国語話者が使う外国語と比較して、色々な文法用語などを、外国語の相当する用語に置き換えて、文構造の違いの形で比較しながら解説をします。

 しかしながら、その解説方法では一定の理解は得られる物の、学習する言語の本質をつかむ事が出来ないというデメリットも存在ます。このことの象徴として、置き換えの聞かない構造は、「例外的表現」とか「習慣的表現」と言った言葉で多用することになります。確かに流動的に文法であっては、例外は有ると思いますが、本来母国語話者にとって例外表現でない事柄まで例外扱いされるのはどうなのか疑問が残るところです。

外国の母国語話者と会話をする上で、自分の気持ちを載せる為の器としての文法は、やはり出来る限り、相手の母国語話者が使う文法構造に近い物を用意した方が、より伝わりやすいのではと、思います。

このサイトでは、母国語話者が使う文法形態について知り得た事は、積極的に載せていきたいと考えています。


(2010/09/04記)