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<中国語コラム(特別編)>の部屋へようこそ

<第四回:離合詞「毕业」問題>
離合動詞の説明は本来この特別コラムで話す内容ではないのだが、今回私がSkypeを使っての学習をする中で起きた中々理解しがたい問題となり、相当突っ込んで私の周囲の中国人も巻き込んだ議論となってしまいました。

色々な過程を経て最終的に理解するに至りましたが、理解するまでに、相当の資料検索と中国人や中国語を学習する、又は教える日本人を巻き込み、時間を費やす事となってしまいました。
しかしながら、そこで得た知識は大変な財産となったと私は考えています。

今回は、理解するに至った過程を含め紹介したいと思います。

(事の発端)
 私がSkypeを通じて学習をしている中で、「間違った文章の間違った部分を修正して正しい文章にする。」という問題が出されました。そしてその中の出題の一つに以下の文章がありました。

(誤)我姐姐已经毕业大学了。

私はこの文章の「毕业」が日本で説明されるところの離合動詞の部類に入る事を知っていた為、「业」の後に別の目的語を置く事が出来ないという認識は有りました。

また、離合動詞というのは2つの漢字を切り離して使う事が出来、2つの漢字の間に別の成分を置く事が出来ると理解していました。
そこで、最初に作った文章は以下の通り、

(改1)我姐姐已经毕大学的业了。

しかし、これは出来ないと言われました。最終的に修正された文は以下の通りです。

(正)我姐姐已经大学毕业了。

私は、この回答を見た時「えっ!」と思ったんですね。何故かというと、主語「我姐姐」と動詞「毕业」に挟まれた位置に来る内容語は"状語"であると言う認識が働いてしまったからです。

しかもこの場合、「大学」という名詞が単独で置かれている。名詞が単独で状語となり得るのか?と言う事でした。

「毕业」は日本では「睡觉」と並んで離合動詞の代表例の様に扱われ色んな文献に登場しますが、どの文献を見ても、「毕业」の前に「大学」を置くとしか書いていません。これでは、私の疑問が晴れません。


(「毕业」問題の調査1、状語偏)
そこで、自分の持っている知識の中でこの名詞を状語の位置に置く為に本来どうすればよいかを考えました。

(改1)我姐姐已经在大学毕业了。
(改2)我姐姐已经大学地毕业了。

まずは、この2つの文章をSkypeの講師にぶつけてみました。

(改1)ですが、これは問題ないとの言葉を貰いました。またこのとき、以下の文章でも良いという解説も貰いました。

(改3)我姐姐已经从大学毕业了。

イメージ的に、名詞を状語の位置に置く為の介詞の使い方としては「从大学」と書いた方が良さそうな事は、私も直感的に分かりました。

次に、(改2)ですが、これは使えないと言う事でした。後で「地」の使い方をもう一度確認しましたが、

A+地+(動詞)Bの構成、 Aの状態で進行する動作(動詞)Bを表す。
A:状態詞 状態句+“地で構成する状語

と言う事でしたので、「大学」は状態を表す語句ではない為「地」を使う事が出来ないことは理解できました。

そこで、(改3)と言う事になるわけですが、では最初の(正)が何故、正しいのか?と言う疑問が出てきました。
(改3)との関係を見ていると、

(改3A)我姐姐已经(从)大学毕业了。

と言う様に、「从」が有るが省略されこの構造での名詞「大学」は「从大学」の意味の含みを持っていると考えるのが妥当な線だった。でも、何故省略できるのかと突っ込んでしまいました。
しかし、これは中々答えて貰える人はいませんでした。

最終的には、「大学」が「毕业」の前に来るのは「固定表現」だとの解説が中国人と中国語を教える日本人の双方から出ました。
これは、確かに「固定表現」として覚える方法も有りますが、何かまだ引っかかる感じがあったので、更に深く掘り下げて調べる事にしました。

そして、最終的に得た資料があって、それは名詞が状語を形成する為の規則でした。
つまり、名詞でも一定の規則に従っている場合は、状語とする事が出来るという物です。

名詞で状語を作る場合は次の様な規則があるようです。
1)普通名詞が状語となる場合
  ①名詞が動作が現れる形態を表している場合。
  ②名詞が人に対する態度を表している場合。
  ③名詞が動作行為の手段、元、方法を表している場合。
  ④名詞が動作行為の場所を表している場合。

2)時間名詞(「日」「月」「岁」)が状語となる場合
  ①名詞が時間単位の一つ一つを表している場合。
  ②名詞が順を追って進む事を表している場合。
  ③名詞が昔(以前)を表している場合。

3)方位名詞が状語となる場合
  方位詞である「南」「西」「东」「北」等が行為動詞の前で状語となり、一般に動作行為の方向を表すことはよく見かけられる。これらの方位詞は現代漢語の習慣から成ると解釈する。いつも加える必要のある前置詞「往」「向」等が来る事は明らかである。

この解説からすると、1)-④が今回の「大学」が当てはまります。
つまり、「毕业」の前に指し示す名詞は何処から「毕业」なのかが必然的に表現されると解釈できます。
最近、ある中日辞書で「毕业」を引くと表題の部分に「(从)~毕业」と書いているのに気づきました。
これはすなはち、「毕业」の前に来る名詞は(从)をの含みを伴っていると説明している事が分かります。


(「毕业」問題の調査2、定語偏)
さて、「毕业」問題はまだ一つ残っていて、離合動詞であるはずの「毕业」は離合して本当に使えるのか?
私が最初に作った(改1)の文章で使えないと言う物があります。

日本人の私は、つい「的」は「~の」と訳しがちですが、このとき何故この様な文章を作ったかというと
「毕业」は動詞「毕(畢)」と目的語「业(業)」に分けると、業を畢(お)える、すなはち卒業すると言う結びつきによって表現されていますが、「大学を卒業するのだから、大学の業だろう」という思考が働いたのです。

それで「大学的业」としたわけだが、これが中国人にとっては理解できない奇妙な表現だと言うのである。
このことは、複数の中国人に聞いてみましたが同じ反応でした。

では、何故そのような事が起こるのかについて非常に興味があり、更に調べてみました。
結論としては、日本人の私が、常に「的」を「~の」と訳していたことが、大きな過ちである事が分かってきました。

定語(連体修飾語)としての「的」の作用についてもう一度調べました。

A+的+Bの構成、AがBの修飾語となりBの物事を限定表現する。
  A:形容詞または状態を示す語
  B:名詞、代詞、動詞 名詞と見なす時、形容詞、短語等
  ※名詞と代詞の後ろに用いる“的”は所有と帰属表現する。

もう少し、詳しく調べていくと、
1)所有・所属を表す「的」
  名詞や代詞が「的」を伴って定語になると、普通、所有・所属関係を表す。
2)「的」の省略
  「的」は次の場合、省略される。
  ①緊密に結びついて熟語化している様な場合。
  ②人称代詞、家族や人間関係・所属集団関係が指し示している場合。
3)状態形容詞化した性質形容詞と結びつく「的」
  性質形容詞は、人や事物の性質や属性を表すもの。
  状態形容詞は、人や事物をリアルに生き生きと描写するのは定語や状語になる。
  さらに状態形容詞には、
  ①本来、状態形容詞であるもの
  ②性質形容詞に何らかの操作を加えて状態形容詞化したもの
  があると言う事です。

  ②については主に、
  程度副詞+性質形容詞+「的」
  と言う形式をとる。  例)很漂亮的衣服

長くなりましたが話を元に戻して、今回の「大学的业」ですが、残念ながら「的」の用法として、上記のどの類にも当てはまらない事が分かります。

「大学」は名詞ですから、もしここで「大学的业」と言ってしまうと、上記に習うと「大学が所有している業」または「大学に所属する業」という意味で、これはとっても奇妙な意味合いとなります。

これが、中国人が「奇妙だ」と言っていた意味に繋がってきます。
日本人の私は、「的」=「の」と勘違いしていた為、イメージのズレが生じたと言えるでしょう。


(「毕业」を離合して使うケース)
しかし、では「毕业」は離合して本当に使えるのか?という設問に対しては、まだ解決していません。
そこで、更に調べると、以下の様なケースでは問題なく使える事が分かりました。

(正)我毕不了业

これは、「毕」「业」の間に定語ではなく補語が入っている場合です。
「不了」は補語で動詞「毕」にかかって否定の完了を表しています。
訳は、「業を終える事が出来なかった」=「卒業できなかった」となります。


(「毕业」問題の結論)
 今まで、「大学」と「毕业」の繋がりと関係を考察してきましたが、結局以下の様にまとめられます。
 ①「大学」と「毕业」の間に所有・所属関係は成り立たず「的」を用いた定語表現は出来ない。
 ②「大学」は「毕」の補語としての役割はない。
 ③「大学」は「毕」の動作行為の場所を表しており状語となりえる。
 ④「大学」は前置詞「从」「在」を伴って状語となりえる。

 以上より、①②の理由で「大学」は「毕业」を離合して間に入れる事が出来ないが、③④の用法を用いる事が出来る。 ④の用法を用いる事は可能だが、③の用法の方がシンプルであり、結果④の前置詞は省略された形をとる事が出来る。
 実質的には、解説の中で「固定表現」と言う言葉が出てきている事から考えても、一般的には③の用法を使うのが自然である。


(後述)
 今回の「毕业」問題は、単に「固定表現」で丸覚えでも構わないと思いますが、かなり拘って調べました。
 結果、思わぬ色々な理解できていない部分や何故イメージのズレが生じてしまうかなどの部分についても発掘できたと思う。日本人が日本人の構文で使っている用法でそのまま置き換えて直訳したのでは間違ったイメージを創り出してしまう一例といえます。

 尚、離合動詞については、別の論議もあり奥が深い内容ですので、この件については別の機会に触れたいと思います。

補足としていうと、今回のことで在日中国人と話をしていて、以下の日本語についてどう思うか聞いてみました。

  ① 私は、大学の業を終える。 = 私は大学を卒業する。
  ② 今日の業をねぎらう。

①については、意味が分からない、理解できない。
②については、「ねぎらう」という意味が最初分からなかったようですが、辞書を引いて何とか分かった。しかし「業をねぎらう」という表現に違和感を感じていた様でした。

①の例から見て分かる事は、「大学」の持つイメージそのものに中国と日本では差があると言う事です。
日本語で言える事が中国語では言えないのである。その為、表現を変えて言い直す必要がある。

「私は大学から業を終える。」 = 「私は大学を卒業する。」

大変為になりました。

最後に蛇足ですが、このとき中国人から意味の通じない文章を作ってしまった時にその文について「病句」と呼ぶ事を教えてくれました。




(2010/09/05記)